この世でいちばん不気味なものは、
“人の善意を装った悪意”かもしれない。
それが、中原チーフ。
私たちが週末に足を踏み入れる職場には、必ずその影が差している。
― 見た目と存在感 ―
髪は不自然なほどに漆黒で、肩甲骨あたりまでまっすぐ。
まるで染め直された呪いのように、一本も乱れていない。
肌は見えない。常にマスク。
目元から下を知っている者は、誰もいない。
でも、それが彼女にとっての“防御”ではなく、
攻撃の武装であることを、皆が知っている。
声は年齢のわりに甘く、気分によって裏返ったり低く沈んだりする。
機嫌が良いときは語尾が伸びる。悪いときは…黙る。

① おにぎり連続消失事件
その日も、私は冷蔵庫にサバのおにぎりを入れていた。
昼休憩。開けると、そこにはなかった。
これが初めてじゃない。半年で2回目。
しかも具材は、あえての“クセつよ”。
コンビニの棚の中でも売れ残る系。サバ、梅昆布、焼きたらこ——
そんなもの、間違って取るはずがない。
誰が?
…皆、心のなかで指差していた。
「あの人しかいない」
② 20年届かぬ煎餅缶
派遣元の会社から、年2回送られてくるはずの“煎餅缶”。
贈答用の、高級なやつ。
箱のなかに小箱が何層も詰まっている、まさに“詰め合わせ”。
けれど、その実物を誰も見たことがない。
中原チーフが「今年は来なかったみたいね」と言えば、
それが事実になる世界。
もう20年間、同じやり口らしい。
「来ないのが普通」と思わせるのも、彼女の手口。
③ スイーツ勝手にひとり占め事件
休憩室。
百貨店で買った、手土産の高級スイーツ。
メンバー5人で分けようとテーブルに置いていたそれを、
誰にも声をかけず、一人で無言で食べていた中原チーフ。
目撃した後輩が「…すみません、見てはいけないものを…」と戸惑いながら声をかけたら、
彼女は振り返ってこう言った。
「だって、美味しそうだったんだもん♡」
甘さよりも苦さが残る一言だった。
④ 誰も見たことのないシャワー室の中
誰も使用していないはずの、派遣先のシャワー室。
勤務中のある時間帯、彼女が鍵をかけて中に閉じこもっている。
しかし——
中から出てくるのを見た人も、入るのを見た人もいない。
何をしているのか?
何があるのか?
…誰も訊けない。
なぜなら、「訊いてはいけない空気」が、すでに出来ているから。
⑤ “晒しチョコ”という見せしめ
ある日、遅刻してきた後輩がお詫びのチョコレートを差し出した。
手提げのビニール袋に入った、可愛らしいお菓子。
でもそれは、中原の机の上に置かれたまま、未開封で2年。
まるで、首を吊られた罪人のように。
来る人、去る人、全員の目に入る場所。
あれはもはや、“晒し首”。
⑥ お団子選別配布事件
お客様からの差し入れ——お団子。
当然、みんなで分けるもの。
でも中原は、“誰に渡さないか”を決めていた。
仲良しグループと見なされた人には「はい、どうぞ〜」
そうでない人には、目も合わせない。
分ける、ではなく
「選ぶ」。
それが彼女の流儀。
⑦ 私のロッカーに忍び寄る悪意
その日、私はうっかりロッカーの鍵をかけ忘れていた。
中には、お気に入りの白いワンピース。
次に見たとき、袖に青いボールペンで書かれた文字——「バーカ」。
他のメンバーのロッカーには手が出ていない。
選ばれたのは、私の服。
悪意は、静かに的を絞って放たれる。
⑧ “帰れ”は私刑
ある日、チーフの機嫌が悪くなった。
誰かがちょっと言い間違えただけだった。
その瞬間、声が一オクターブ下がった。
そしてそのまま黙り、1時間ほど経過。
空気が凍ったその後、「今日はもう帰っていい」と一言。
言われた子はポカンとしていたけれど、
それが**この職場での“処罰”**だった。
⑨ 監視と盗聴と“偶然の知識”
ある日、私は休憩中に小声で言った。
「あのクレーム、うまく対応できてよかったよね」
…その午後。
中原チーフが私を呼び止めて、こう言った。
「クレームの件、大変だったみたいね。あなた、落ち着いてたって聞いたわ」
誰が話したの?
誰にも言っていない。
でも中原は**“知っていた”。**
この職場に、プライバシーはない。
あるのは、目に見えない監視網だけ。
⑩ 辞める辞める詐欺
「もう無理」「やってらんない」「辞める」
口癖のように繰り返しながら、
次の週には、誰よりも元気に出勤してくる。
「会社が手放してくれなくて〜」「困るよね〜人気者って」
…そう語るその姿に、同情する者はもう誰もいない。
でも彼女は、“被害者”というポジションが心地良いらしい。
バイトが終わったあと、私はマクドナルドに立ち寄り、
ハンバーガーをほおばって、笑った。

ZARAで服を見て、
眉カットとまつげパーマで、目元に冷たさと凛を取り戻す。

どんなに醜い空気の中でも、私は美しく在り続ける。
それが、私のささやかな“闘い方”。
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